2014年3月26日 オーストリア、ウィーン
 
 
歓迎の辞
 
オーストリア大統領
ハインツ・フィッシャー
 
閣下各位、宗教間対話の参加者、皆様
 
 私は、ここウィーンに皆様を歓迎することを大変うれしく思いますし、私をご招待くださったこの会議の組織委員長、フランツ・フラニツキー博士に感謝申し上げます。
 
 本日は、ドイツ元首相でこのインターアクション・カウンシル(OBサミット)名誉議長、ヘルムート・シュミット氏が参加されています。彼を歓迎できることは、私たちの特別な喜びであり、彼がこの会議をウィーンで開催すべきだと提案されたことにも感謝しております。シュミット首相、私たち全員は、この会議のためにウィーンにお出でくださったことを大変な光栄と存じております。そして宗教間対話に専念するこの会議に参加される皆様にもご挨拶できることは、私の喜びです。
 
皆様
 
 異なる文化と宗教間の対話促進は、長年オーストリア政府にとっての優先事項でした。
 
 オーストリアの社会は、文化、宗教、伝統、言語において多元的と説明し得るでしょう。19世紀から20世紀に移る頃、ウィーンはイタリア北部からウクライナ西部まで、そしてチェコ共和国から今日のルーマニアの1部までに広がる15の民族で構成された帝国の首都でした。1914年のオーストリア国会議員のうち、4名が後にそれぞれの国の首相になりました。それは、イタリアのガスペリ、チェコ共和国のマザリク、ポーランドのピルスデスキー、そしてオーストリアのカール・レナーです。異なる民族と宗教の間で共に暮らし、共に働くことは、私達の日常生活の1部でした。常に緊張がなかったとは申しませんが、機能はしていました。
 
 例えば1912年、オーストリアはイスラム教を帝国内の公的宗教のひとつとして法的に認めた最初の西側国家となりました。それは極めて進歩的な第1歩でした。100年後の今日、グローバル化と移民のために、人口構成は大きく変わっています。
 
 
 異文化間、異宗教間の緊張の高まりが近年の世界を特徴づけてきました。そのような緊張を緩和させるために、オーストリアは既存の障壁を除去し、多元主義と共存を強化するうえで、対話と交流が有効な手段だと考えております。
 
 異文化間の関わりと協力という今日の挑戦と向き合うために、私たちは2国間、多国間のイニシアチブと積極的に対応してきました。これらのイニシアチブの目的は、共通の価値 - すなわち平和、異なるグループの尊重と寛容 -を強調することが圧倒的に多いようです。
 
 こうしたコミットメントはいくつかの例証で説明できます。
 
 第1に、国連文明同盟(UNAOC)は、文化間交流のための場をいくつか提供する遠大な事業で構成されています。UNAOCの強力な支援国として、オーストリアはウィーンで2013年2月に第5回グローバル・フォーラムを開催しました。そのときのテーマは「多様性と対話における責任あるリーダーシップ」で、これは対話と多様性という概念を推進するうえで責任あるリーダーシップが重要であることを認識したものです。
 
 第2に、創設メンバー国としてオーストリアは、2012年にウィーンに本部を置いたアブドラ・ビン・アブドルアジズ宗教間・文化間対話国際センター(KAICIID)を支援しています。
 
 ここで、今日のオーストリアに関して何点か言及したく存じます。
 
 現政府は、2013年9月9日に行われた総選挙を反映しており、社会民主党とキリスト教民主党との大連立政権です。ブルーノ・クライスキーの頃に比較すると、両党ともほぼ半分になっています。1975年、社民党と保守は183議席中123議席(投票の66.35%)を取っていましたし、当時は国会に代表を送り込んでいた政党は3つでした。今日、社会民主党とキリスト教民主党は投票の52パーセントしか取れず、国会には6政党が代表されています。
 
 あと2カ月後に迫った欧州選挙の予測では、3政党、(すなわち社会民主党、キリスト教民主党、自由党)が投票の23〜25%という同程度の得票率のチャンスがあると予想されております。
 
 オーストリアの経済統計は、かなり良い状況が続いております。2014年の成長率は1.5%と予測され、失業率は約5%で欧州中最良であり続けるでしょう。最近の推定によると、オーストリアの2014年のインフレ率は2%以下(1.6〜1.9%)となっております。オーストリアの2013年の一人当たりGDPは37,0077ユーロでした(ドイツは33,350ユーロ)。私たちの輸出品の年間成長率は5%です。100ユーロの収入のうち56ユーロが輸出で、私たちの輸出のほぼ3分の1はドイツ向けです。それより少し多い38%がEUの他の諸国に行き、10%がアジア、10%が北南米大陸向けです。
 
 皆様、これ以上皆様の貴重なお時間を取るつもりはありませんが、この会議の基礎をなす前提に私が強く共鳴していることにもう1度言及させてください。すなわち、文化間、宗教間対話への努力は、選挙の周期や個々の行政を超えたものだということを。私たちのそれぞれの努力は、本来は継続されるべきで、政策決定の中核として深く留められていると見られるべきです。そうすることで初めて、他の人々への理解を尊重することに成功し、本当に統合された多元論的社会に到達できるのです。
 
 ご清聴ありがとうございました。
 
 
 
シュミット首相への賛辞
 
元フランス大統領
ヴァレリー・ジスカール・デスタン
 
 ウィーン市長兼知事ハウプル氏、大臣各位、OBサミット・メンバーの皆様、宗教指導者および神学者の皆様、淑女および紳士の皆様
 
 私は今晩ここ、素晴らしいウィーン市庁舎に皆様とご一緒できることをうれしく思い、市長兼知事のミカエル・ハイプル氏のご招待に感謝申し上げます。
 
 私たちは今日、「政策決定における倫理」という興味深いテーマを議論しました。卓越した学者やこのテーマに関する専門家の皆様の参加が議論を極めて中身の濃い、実りの多いものにしてくれました。
 
 しかし、今晩私たちの注目の焦点となるのは別のテーマです。それはヘルムート・シュミットです。そして我が親愛なる友人、ヘルムート、貴方に敬意を払うよう、この参加者の中から私が専門家として依頼されたことを大変うれしく思います。
 
 倫理の分野に留まって話しますと、倫理的行動とは、最大の善と最少の害を提供するものと定義できるでしょう。私は、ヘルムートへの賛美についてもこの原則を尊重して行う努力をいたします。
 
 もちろん、彼は、私たち全員の尊敬に値します。彼は、事実、ドイツの最高指導者として常に勇気と1貫性を持って行動しました。
 
 ヘルムート・シュミットが首相だった頃、ドイツは戦争の恐怖とそれに伴う犯罪によってあまりにもひどく痛めつけられたイメージを回復し、再び大国としての立場を取り戻せたのです。もちろん、ドイツのイメージの回復は、意図的に謙虚だったアデナウアー首相の確固たる民主主義の運営で始まり、極めて困難だったその努力の賜物です。これが、深い自己批判という意味でのドイツ国民の驚くほど勇気ある努力によって引き継がれたのです。しかし、そのプロセスを完成したのがヘルムート・シュミットでした。それは、有能さ、質素さ、そして健全な判断力に結びついた彼の素質によって達成されたのです。ドイツ人たちは、彼らの民族国家(国民国家)の新たな定義において、幸福な状態に戻れたのです。
 
 しかも当時の国際的環境は決して良好ではありませんでした。
 
 ソビエト体制における最初のひびは、ポーランド危機の頃現れました。ブレジネフとそのグループは、それに対していかなる態度を取るべきか分からず、躊躇していました。ヘルムート・シュミットが軍事的介入という選択肢を回避するよう助けたのです。同時に、彼は、ソ連軍のアフガニスタン侵入という冒険主義を非難しました。この戦争により、究極的に彼らは何もプラスのない結果の中で疲れ果てるという運命にあったのです。
 
 彼が直面したこの一連の出来事は、米国が担うべき役割について、彼に新たな見解を持たせました。それまでは、米国の指導者たちのドイツに対する態度は、占領文化の継続でした。さりげない仕方で、彼らは依然としてドイツが何をしなければならないかを決定していたのです。ヘルムート・シュミットは、彼の国をこの単純化された制約から脱出させようと忍耐強く機会をうかがっていました。彼は、カーター政権の煮え切らなさによってこれを強制されたのです。中性子爆弾やモスクワ・オリンピックへのドイツの不参加といった繊細な問題で、ドイツの支持を要求しておきながら、一言の説明もなくその目的を突如として取り下げてしまったのです。こうした動きは、ヨーロッパ-当時は9か国で、その後10か国になりました-が一層強力な政治構造を持つことこそ急務である、とへルムート・シュミットに確信させたのでした
 
 またこの分野でも、ぶれないこと - 矛盾の不在という意味で - が常に彼を動かす原則でした。ヘルムート・シュミットは、実際、信念溢れるヨーロッパ人でした。それ以外の方途などあり得たのでしょうか。
 
 私たちは、1960年代末、何かを予告するような場所、ジャン・モネの家で最初に出会いました。ジャン・モネは、彼の「ヨーロッパ合衆国委員会」メンバーたちとの会合を自宅で開催していたのです。
 
 私が初めてその家に入ったとき、煙がもうもうと立ち込めている所がありましたが、その煙の下にいたのが、ヘルムート・シュミットでした。
 
 1972年の蔵相会議で、再び会いましたが、隣同士に座り、議論に関してコメントを交わせるよう、私たちのどちらかが卓上の名前プレートを動かしてしまったことも覚えております。
 
 私たちの間では、いつも自然な共犯関係がありました。それは、類似したビジョンと完璧な個人的忠誠心に基づいたものでした。ヘルムートは、驚くべき実直さの化身でした。どこに行こうとも、群集は私が「彼の確実性」と呼ぶ特質に対して敬意を払っていました。
 
 1972年、彼は、カール・シラーから経済大臣のポストを引き継ぎました。シラーは、当時追い風に乗っていたドイツ企業のために、より広範な経済開放と通貨のフロートを主張していた派手な大臣でした。ヘルムートの信じがたい勤勉さと実用的知性のおかげで、彼は1971年から74年にかけて行われたブレトン・ウッズ固定相場制の廃止と新しいタイプの国際通貨制度の模索に関する知的論議で主要なプレーヤーとなりました。彼が通貨のフロート制度に混乱させられていたヨーロッパ間に新たな結束を確立する必要性を見出したのはこの時だった、と私は思います。
 
 私たちは、私たちの同僚とこの新たな結束を形つくるための作業に着手しました。「通貨のスネーク」は、過度に異なる趨勢からくる圧力の下、崩壊しました。私たちは、より強固なものを作る努力を続けました。私たちの努力は最終的には1978-79年の欧州通貨制度の発足とユーロ(EURO)の前身であるエキュ(ECU)の導入をもたらしました。
 
 ヘルムート・シュミットが、これらの最大の貢献者です。彼は、確固たる政策を表明していたドイツ連邦銀行の意見とは逆に、ドイツ・マルクを他の弱い欧州通貨とリンクさせることをドイツ国民に説得しなければなりませんでした。そして皆様もご存知のように、ドイツの世論にとって、ドイツ・マルクは同国の経済復興そのもののシンボルであり、安全と誇りの要でした。欧州通貨制度の創設へのドイツ経済界の支持を勝ち取るために、ヘルムート・シュミットは彼の説得力と有能かつ公明正大なメッセージで尽力しました。私にはこれを達成し得ただろう人は他に思いつきません。欧州通貨を作り上げたことの功績を誤って求める人々とは対照的に、最高の栄誉はヘルムート・シュミットに与えられなければならない所以です。
 
 1986年に私たちが「欧州通貨ユニオン委員会」を創設したとき、その報告書がユーロ導入文書の口火となったのです。その中で彼は、相対的に無気力だった他の指導者たちに、彼自身のヨーロッパに対する強いコミットメントを確認しています。
 
 全てのヨーロッパ人は、ユーロなしの場合、今日の危機において、私たちの制度に大打撃を与えたであろう通貨切り下げ競争に直面しただろうという事実を意識すべきです。ユーロは、この地域全体を保護する並外れた盾なのです。
 
 ヨーロッパにおけるその他の決定的な進展も、その時々の私たちの確実なパートナーシップのおかげでもたらされました。それなくして、私たちは1974年に欧州理事会を創設できなかったでしょうし、欧州議会の議員もここ35年間実施されてきたように、欧州市民による5月の選挙で直接選ばれることはなかったでしょう。
 
 しかし、ヘルムート・シュミットの政治生活で最も劇的な瞬間は「ドイツの秋」と呼ばれる1連の事件だった、と私は思います。
 
 ヘルムート・シュミットは当時、死すら恐れない過激派の言語道断なテロ活動と対抗せざるを得ませんでした。実業家のマルティン・シュライヤー氏が誘拐されたとき、首相のぶれのなさが試されたのです。彼は生命と国家の安全保障の重みを測らざるを得ませんでした。それは市民の具体的な喪失とそれよりも抽象的な国家利益の間の過酷な選択でした。
 
 何年も後、ヘルムート・シュミットは、これが彼の人生で最も困難な選択だった、と語っています。私たちはこの勇気ある態度に尊敬の念を表すばかりです。
 
 こうした瞬間に美徳は顔を現すのです。
 
 孔子が言ったように「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ。」(論語、雍也第6、20章)
 
 ヘルムート、貴方はその長い人生でこの教えに従いました。そしてそれが貴方を本物の優れた政治指導者にし、私にとっては極めて特別な友人にしたのです。
 
 お誕生日おめでとう!
 
 
 
基調講演
意思決定における普遍的倫理
 
元オーストラリア首相
マルコム・フレーザー
 
 この特別の会議は、シュミット元首相の95歳の誕生日を祝うために、またインターアクション・カウンシル(OBサミット)の創設者たち、とりわけそのビジョンと着想によってこのカウンシルの創設を導かれた故福田赳夫元日本国首相に感謝を表明するために開催されております。ヘルムート・シュミット氏は、その人生を通して、多くの変化に直面されてきました。彼は1941年、ドイツの若き陸軍中尉として、ロシア前線に派兵されました。モスクワの空襲も経験しましたが、幸いにも彼の部隊はスターリングラードに配属されませんでした。もしそうであったならば、ヨーロッパは20世紀で最も偉大な政治家の一人を失うことになっていたでしょう。
 
 シュミット元首相は、戦後、英仏間の長年の敵意を徹底的に取り除くために、そしてヨーロッパの1体化を目指して、たゆみなく努力されました。シュミット首相は、彼に敬意を表するためにこの場に参加されたジスカール・デスタン元フランス大統領-私も今回お会いできて嬉しいのですが-と、とりわけ緊密に連携を取り合い努力されました。この偉大なお2方はこのOBサミットのみならず、広く世界中にも教訓と規範をもたらしました。フランスとドイツは、手に負えない積年の敵意にとらわれていました。彼らは、それとは異なる2国間関係の構築、すなわち協調と協力関係を確実にすることに努めた最重要人物でした。彼らと現役時代を共にできたことは、私の幸運でした。
 
 私はここに集まられたOBサミットのメンバーたちと宗教指導者の皆様に特別の歓迎を表します。後者は、すでに私たちの議論のために小論文提出という形で大いに貢献されておられます。御礼申し上げます。また、特別ゲストの皆様にも歓迎の意を表します。
 
 OBサミットは、旧ソ連がアフガニスタンを侵攻した直後の1983年に設立されました。その目的は、人口爆発、環境破壊に繋がる生活様式がもたらす多くの挑戦など長期的な地球人類問題を考察することでした。平和で豊かな世界はどうしたら構築できるのか。核兵器はどうしたら禁止できるのか。各国政府が無視しがちな長期的問題といかに取り組むべきか。これらは故福田赳夫首相が特に憂慮された問題でした。
 
 シュミット首相と福田首相は、世界の主要宗教の中核に共通の倫理があると認識され、その定義と理解とを宗教間対話を通じて模索しました。最初の宗教間対話は、1987年に開催されました。「人間の責任に関する世界宣言」案に先立つこと10年前でした。そこでの宣言は、全ての宗教に受け入れられる普遍的倫理を定義したおそらく最初のものです。
 
 今日、こうした長期的諸問題をかつてなかったほど重要にしている多くの要因が地球上に存在します。そのひとつは、世界人口の急増です。100年前の第1次世界大戦の頃、世界の人口は17億人でした。第2次世界大戦が終わった頃は、23億人でした。それが今日では72億人に達しており、依然として急増し続けております。この人口増は資源を逼迫させているので、地球上の資源をより賢明に活用し、環境問題に適切な注意を払うことが急務なのです。
 
 長期的諸問題への対応を急務にしている要因は、これらだけではありません。冷戦時代、世界はより安定しており、深刻な軍事対決の危険は今日よりも少なかったのです。2つの超大国が存在したことが、危険ではあったがある特定のバランスをもたらしていたのです。
 
 それぞれが、相手をあまり刺激してはならないことを理解しており、いずれも核戦争は望んでおりませんでした。ただしその危機に恐ろしいほど近づいたことも何回かはありました。このバランスはソ連邦の崩壊で1991年に終焉しました。
 
 それ以降、核不拡散条約にもかかわらず、当時よりも多くの国 - 現在9カ国 - が核兵器を持つにいたりました。テロリストの手に核兵器が落ちる危険には現実味があります。また、地域的核戦争の可能性も単なる憶測であるとして無視するわけにはいきません。そうした地域的紛争が気候、環境、将来の安全保障に深刻な影響を世界中に及ぼすこと、そして数十億人が飢餓に直面するかもしれない、というリスクを理解していない人々が多すぎます。
 
 1990年、第1次湾岸戦争が勃発しました。その戦後、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、1991年3月6日に、私が偉大なスピーチだったと評価した演説を米国議会で行いました。彼は「この小国(クウェート)の支援のために、北米、ヨーロッパ、アジア、南米、アフリカ、アラブの国々が集合しました。皆が侵略に対して団結したのです。私たちのこの普通ではない連合は、これから共通の目的のために努力しなければなりません。すなわち、人間の暗い側面の人質には決してならないという将来を作り上げることです。」と言いました。これが米国から聞きたかった声でした。ブッシュ(父)大統領は、新たな世界について語りました。ウィンストン・チャーチルを引用して、世界の新秩序とは「正義と公正の原則は、弱者を強者から守る」のだと。
 
 その頃は楽観的な時期でした。暗い勢力だった共産主義と自由世界の間の競争は終わりました。自由に対する明白な敵はいなくなりました。各国は、人間性と良識を世界中で前進させるために、協調し合うことができるとされたのです。
 
 
 それは私の人生で、二度目の楽観主義が世界を覆った時期でした。文明が自らをほぼ壊滅させた第2次世界大戦後、戦勝国、敗戦国双方の指導者たちはもっと賢明にならなければならないことを自覚していました。それは解放の時期でした。国連の理念と自由および平等の精神が世界中に広がったのです。各国は人類の向上のために努力するのだと。不幸にもその楽観主義はすぐ消散してしまいました。
 
 冷戦は40年以上続きました。パワー・ポリティックスの古い規範が、国際関係を支配したのです。危険なライバル関係もありました。主要諸国間で真に協力的な世界を築くチャンスは失われてしまいました。
 
 ソ連崩壊後も、楽観的な時期はすぐ終わりました。疑念と恐怖に影響された古い規範が国際関係を支配し、テロとの戦いを含む新たな危険が台頭したのでした。この「テロとの戦い」という名は誤ってつけられたと思います。原理主義者たちが、それをイスラムに対する戦いと解釈するのがあまりにも簡単だったからです。
 
 国家間の信頼が崩壊する時、私たちはその理由を理解すべく努力しなければなりません。私たちは、問題を客観的に、誠意を持って見つめるべきなのです。たとえば、NATO(北大西洋条約機構)はその目的を達成しました。西ヨーロッパの自由は確保されました。一発も発砲せずに戦いに勝ったのです。以前は旧ソ連帝国の支配下にあった多くの国々も含めて、自由は確保されました。それは寛大な時期でした。それは遠くを見つめるべき時代でした。しかし、狭量な自己利益が蔓延してしまいました。
 
 ゴルバチョフ大統領が「NATOは東側に拡大しないという約束があった」と信じていたにもかかわらず、NATOはロシア国境線まで押し広げられました。その帝国が崩壊したロシアは、これを確実に非友好的行動と見なすのです。東ヨーロッパの自由を確保し保証するには、他にも方法があったはずです。しかしNATOはそうは考えませんでした。それがおそらく最も重要かつ致命的な過ちだったでしょう。多くの人々の目には、それがウクライナおよびクリミアにおける今日の問題に大きく影響してしまったと映っています。
 
 新しい世界において「ロシアが真に協力的なパートナーであることを他の国が望んでいるのだ」とロシアが信じる政策を実施すべきだったのです。それは、ロシアの見解にも十分な余地と考慮が与えられる世界です。このNATO拡大がそうした可能性を破壊してしまいました。東欧における新兵器システムの開発は、ロシアの懸念を強めただけです。
 
 1991年にブッシュ(父)大統領が発表した原則は、何故そうも簡単にそして急速に見捨てられたのでしょうか。湾岸戦争後に多くの人々が経験した偉大なる希望は、どうして実現できなかったのでしょうか。その結果、その後何年もたって、より危険な世界に身をおくことになってしまったのです。
 
 米国だけが特別であるという概念は、米国建国の時から存在していました。しかし近年、米国が実際に世界最強の国となってから、米国の「例外主義」が世界の時勢における主要な影響力となり要因となったのです。
 
 米国の駐トルコおよびタイ大使を務め、国際危機管理グループの創設者のひとりだったモートン・アブラモウィッツは、 The National Interest 誌に2012年「米国の例外主義が米国外交政策をいかに破滅させるか」と題した論文を寄稿しました。その中で彼は「我々のユニークな徳に対する独特の信仰は、他のどの国も持たない行動力のみならず生得の自由を持っているのだ、と我々に信じさせてしまう。我々の主張、とりわけ軍事力を行使するときは不変に正しいのだと。そして必要とあらば、我々は我々の法律さえも無視できるのだ。」と書きました。米国情勢に関するこの正直かつオープンなコメントは、一読に値します。
 
 オバマ大統領ですら、米国の例外主義への信仰を主張しています。彼は「子供たちをガス死から守り、長期的には私たちの子供たちをより安全にするために行動すべきであると思います。それがアメリカを他とは違う国にしているのです。それが私たちを特別にしているのです。」実際、子供たちのガス死を望まないのはアメリカ1国だけでしょうか。
 
 米国は他のどの国よりパワーをもっております。しかし何かユニークな徳を主張することは、平和のためには何の貢献もしないのです。ウラジミール・プーチン大統領がニューヨーク・タイムスの意見広告で「人々に自分達は例外だと思わせることを奨励するのは極めて危険だ」と訴えたのは正しかったのです。なぜ危険かというと、それが正しいという感覚を自国民に植え付けるからです。自己の見解に確信を持たせ、他国の人々の意見に耳を貸すゆとりを奪ってしまうからです。こうしたことは、平和への誘因にはなれません。
 
 他の人々あるいは国にとって、何が受け入れ可能なのかを考えられないことが、往々にして合意や平和の達成を極めて困難にしているのです。
 
 いかなる外交交渉でも、相手の議論を理解すること、何が合理的で何が不合理かについて静かに判断できることは重要です。順応を望むのならば、合理的な線を越えてはならないのです。成功し長く記憶に残る外交交渉では、双方の当事者たちが「価値ある何かを達成した」と思って交渉の場を離れられるのです。
 
 これは、国同士での確実な問題なのですが、宗教間あるいは宗教内の問題でもあります。かつて、アイルランドではカトリック対プロテスタントの対立が双方からのテロリズムにまで発展しました。何十年もの交渉と苦痛を経ても、アイルランドの平和な将来への機会を築くことはできませんでした。そして対立中は、双方で相手に対する偏見と憎悪をあおりました。そうした言葉が発せられると、それを打ち消すのは困難です。宗教的憎悪は、おそらく全ての人が克服しなければならないものでしょう。
 
 私は、世界の主要宗教すべてには普遍的な倫理規範が流れていると真に信じています。基本的価値観、倫理規範、平和な社会の必要性は共有されているのです。これは私達の「人間の責任に関する世界宣言」にいたった長い議論において明らかになりました。普遍的倫理の原則を言葉に表すのは簡単ですが、それを人々に行動に移してもらい、彼らの生活で実践してもらうことは、全く別問題です。OBサミットも、世界のほとんどの国も、これまでその結実を逃してしまったのです。
 
 今日、西側世界では多くの人がイスラム原理主義とジハード聖職者の声を非難し「妥協などどうしてあり得るのだ」と主張しています。彼らが忘れているのは、これらは極端なイスラムであり、世界中のムスリムの圧倒的多数に非難されていることです。
 
 もしも西側の我々が正直に認めるのであれば、キリスト教原理主義者たちもいます。イスラムが全ての危険の源泉であり、世界平和に対する全ての脅威だと指摘する人々もいます。ほとんど全ての宗教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にも原理主義者がいることを明確に指摘すべきです。いかにしたら、彼らのレトリック、彼らの扇動がもはや新たな志願者を惹きつけない世界を構築できるのでしょうか。これは私たち全員に対する最大の挑戦のひとつです。これは西側にいる私たちにとっても、我々の言動が原理主義者たちに逆手に取られないよう気をつけるべき挑戦です。
 
 中東では、おそらく多くの人々が、1953年のモザデグ首相の追放から第2次湾岸戦争の米国、英国、オーストラリア等によるイラク侵攻にいたるまでの西側の干渉が、地域全体の多くの問題の原因であると見なしています。西側政策のどれが成功し、あの地域における平和と共通の前進に貢献したかを検証するのは、確かに困難です。第1次湾岸戦争は例外でしたが、あれは単なる西側の政策ではありませんでした。米国は、2003年のイラク侵攻とは顕著に対照的な30カ国を超える連合隊をまとめたのでした。
 
 今日、中東地域全体に見られる混乱は、平和的前進にとっておそらく最大の障害である同地域固有の問題にも見えます。イスラム教内の宗派間に見られる深刻な分断、敵対心、憎悪は、あきらかに数カ国に異常な衝撃を与えているからです。アル・カイーダ自身、世界中にイスラム教への心配と恐怖心を引き起こした主体でした。しかし、前述のとおり、イスラム教内の分断はムスリム独特のものではありません。同じようなことが、キリスト教国家にも起こり、無残な代償を支払わせてきました。
 
 近年は中東が主な焦点でしたが、西太平洋は緊張と対抗の新たな地域となりつつあります。ここでもまた、ブッシュ大統領が1991年3月に発表した原則を採択する代わりに、冷戦時代の原則であったパワー、封じ込め軍事的対抗がますます前面に出てきています。
 
 同地域全体で、平和で効果的な前進の見事な例もあります。今日10カ国が加盟し、その中には元は敵国同士もあるASEANの発展は、注目に値します。これは、とくにタイとインドネシアのイニシアチブで始まり、西側の関与はありませんでした。これらのアジア諸国は自分たちの方式で進め、それが効果的だったのです。依然としていくつかの問題は残っており、南シナ海を巡る対抗心もありますが、多くの域内問題は、ASEAN内で収められ、管理されています。全ての参加国が、より大きな目的は平和と協力によってもたらされることを認識しているのです。私たちは、全加盟国が民主主義国家ではないことに注目すべきですが、それが必要とされる協力を阻害したことはありません。事実、ASEANは加盟諸国間の相違を仲介する暫定措置をとるところまで発展しました。ASEANの進化は、私たち全員に良きモデルを提供してくれます。しかしその教訓を西側諸国が学んだという兆候はみられません。
 
 私たちが直面しなければならない問題のひとつが世界各地で起きている急激な変化です。例えば、国によっては、増大する中国のパワー、強さ、経済的影響力を受け入れることが困難なようです。中国は西側で十分に理解されていません。中国で起こることは、その歴史、文化、原因などへの理解なしに、往々にして敵意のこもった報道をされます。中国は欧州やアメリカとは異なった方法を取りますが、これまではそれがバランスを保ち、経済的成長と発展の継続にとって効果的だったのです。これは中国内の生活水準を上げる彼らの計画にとって絶対に必要だったのです。
 
 これが、私たちが理解しなければならない進化なのです。今日の多くの指導者たちの人生の中で、中国が引きこもって内部の問題に専念した時代がありました。直接的に必要と思われたこと以外は外側との交流は、当時ほとんどありませんでした。
 
 中国はこの閉鎖的時代から抜け出し、西太平洋の全ての国にとって主な貿易相手国となりました。中国経済は依然として年率7パーセントで成長しています。歴史が長く誇り高い国として中国の見解は尊重されなければならず、アジア太平洋地域全体における諸問題への対応には、しかるべき立場を与えなければならないことは自明の理です。それを攻撃的かつパワーの新たな誇示と見なしてはならないのです。むしろ、中国の伝統的そして歴史的国益の復活と見なすべきでしょう。しかし、それが懸念を生み、時には誇張されて見られています。中国は欧米や日本のようにかつて帝国だったことはありません。この西太平洋における新たなバランスとどのように対処するか、それがどのように進展するかは、中国自身の態度のみでなく、特に米国と日本が中国といかに対応するかにかかっています。最近では、これらの3カ国間で良き進展は見られません。中国と日本の間には不信が存在し、米国では懸念が増大しています。何をどうすべきか、すべきではないのかに関しても不確実です。不確実な米国が誤って軍事的選択肢を求めることもあり得ます。
 
 私がこういうことを指摘するのは、欧州と米国の注目が圧倒的に中東地域全体で平和と進歩を達成すること、そしてソ連崩壊後の困難に注がれてきたからです。しかし世界が直面する問題はそれらよりも広範に及んでいるのです。西太平洋はもっと注目されるべき地域なのです。
 
 ここまでは、緊張と困難について話してきましたが、何をなすべきなのか。このOBサミットは何を発信できるのか。私たちは、より遠大な目的意識と倫理的政府の必要性に注目を喚起すべきなのでしょうか。ここにいるほとんどの人々は政治的権力を行使できる段階をとうに超しています。今日現役の人々は前任者たちの言うことには耳を貸したがりません。しかし私は、私たちが岐路に立っていると思うのです。それは、平和と進歩への展望を前進させる倫理観に基づく政策決定を下すのか、核兵器使用の展望を伴う第3次世界大戦への長い下降線をたどるのか、なのです。それが中東での紛争を巡ってか、東シナ海の岩を巡って起こるかは、結末にとってさして重要ではありません。
 
 これらの問題は以前よりも急務です。それは人類が今、この地球上の命を破滅させる手段を2つ手にしているからです。核不拡散条約の不十分さ、同条約が義務付けている核保有諸国の核兵器廃止の失敗、核兵器に利用可能な核分裂性物質の生産能力の拡大、高度監視状態にある2000個の核兵器の存続などが、以前よりも核対決の可能性を高めているのです。限界的な核戦争でさえも、地球を廃墟にしてしまうのです。
 
 第2に、環境問題、人間の大気圏汚染に対する失敗も地球を破滅させ得るのです。快適な生活を送っている私たちには、この緊急性を理解することは困難かもしれませんが、効果的かつ十分な対応策なしに時間だけが過ぎ去っていくことから、この緊急性も増大しているのです。
 
そこで、追求すべきことが何点かあります。
 
1. 核不拡散条約が不平等に適用されてきたこと。友好国と見なされた国ではある行動が許され、同様の行動が他の国には許されていません。核不拡散条約は、緊急に更新されなければなりません。これについて、米国の元軍人や国防・国務長官のかなりの人々が意見を表明しています。ジョージ・シュルツ、ヘンリー・キッシンジャー、ビル・ペリー、サム・ナンたちが核兵器はいかなる国の安全にとっても必要なく、逆に人類全体を危険に陥れており、したがってそれを廃止すべきだと表明しました。彼らの意見は核保有国を含む多くの国の識者たちによって追認されました。
 
 この状況は、40カ国以上が核兵器を構築する能力を有していることから、愁眉の問題です。数カ月以内に核兵器搭載のミサイルを所有し得る国も数カ国あります。これが核対決の危険、あるいはテロリストによる核兵器入手の危険性をかつてなく大きくしているのです。
 
 核兵器禁止ないし廃止を義務付ける国際的合意は必要であり、各国はそうした合意に向かう交渉を開始する能力もあり、責任があると思うのです。
 
2. 私たちはまた、温室効果および高度消費を奨励する西側の生活スタイルの模倣と拡散を通じて、この地球に深刻な打撃を与えています。これは、人類の歴史においても新しい現象です。
 
 私たちはいかにして前進への道程を見出すのでしょうか。いかにして必要とされる行動への意志と信念を解き放つのでしょうか。生活態度に変化がないかぎり、この問題と対処できないのです。それは自己利益の強調を薄め、政府による倫理的、長期的意思決定に1層大きなウェイトをおくのです。
 
3. 模範とすべき例証もあります。ジスカール・デスタン大統領とシュミット首相が戦後、従来の最大の敵国間で協力関係を打ち立てるために払った努力は、その良き一例です。このOBサミットの長年のメンバーであるオスカー・アリアスは、中央アメリカで払った努力でノーベル平和賞を受賞しました。彼は平和のために働き続けています。
 
 残念ながら、大国、力のある国、そして商業利益がからんでいる国が往々にして前進を困難にしています。平和と前進を追求する際、取らなければならないリスクの要素が行動を阻害し、指導者たちに伝統的態度そして反感を買ってしまう行為を奨励してしまうのです。
 
4. 南アフリカからも大きな教訓が得られます。大多数の黒人が権力を手にしたら、復讐したがるだろうと多くの白人が信じていました。しかしネルソン・マンデラは、南アフリカは全ての国民が重視される虹の国にならなければならない、と曇りのない心で理解していました。同国の真実・和解委員会は、宗教内あるいは国際関係における困難に対しても適用できる方式を提供しています。
 
5. 全ての国は国連を真剣に受け止めなければなりません。私たちはあの組織の原則と理念を知っています。国連はあまりにもしばしば批判の対象になっていますが、そうした批判は本来加盟諸国に向けられるべきものなのです。国連はその構成部分の総合体なのです。国連が機能するか、あるいは自国の利益を追求することで失敗させるかは、各国政府次第です。
 
 国連改革の問題はありますが、現存の構造の中でも更なる前進は可能なのです。態度を変化させることだけでも、世界では大変な違いが出てくるのです。大国が国連を遵守すると決めれば、そして自国の勝手で規則を曲げないのであれば、そうした変化だけでも前進を可能にするのです。
 
6.国連規則のなかで、私が前述したASEANの進歩により多くの注目を払うべきです。
 
 私たちのこの会議で諸問題を解決することはできません。それは私たちの目的でもありません。それでも、あるプロセスを示唆することはできるのではないでしょうか。皆様の英知が一丸となって、世界をより安全な場所にするべく各国政府をいかに動機づけるかを示唆することはできるのではないでしょうか。私たちは、世界が直面している諸問題の緊急性に関しても確実に協調することができます。私たちには、効果的な行動の重要性を強調することもできるのです。そして、私たちすべてをひっきりなしに襲う危険を強調することができるのです。
 
 私は、ハバシ博士の小論文にあった提案をうれしく読みました。それは、政治・宗教者たちが署名できる人間の倫理規範を定義することを、もう一度追求すべきだという提案です。各宗教内と宗教間、そして国際間で、普遍的倫理規範を受け入れることは、より正義あふれる平和な世界へのひとつの前提条件なのかもしれません。
 
 これから2日間の議論において、皆様の価値ある貢献が前進への道程を示唆します。それが自己利益を脇におき、倫理的な政府がそれに取って代わっていく動機ともなるでしょう。もしそれが達成できるのであれば、故福田赳夫氏とヘルムート・シュミット氏がOBサミット創設時に願望したことを達成できるのではないでしょうか。
 
 
 
歓迎の辞
 
ウィーン宗教間対話会議組織委員長
元オーストリア首相
フランツ・フラニツキー
 
大統領閣下
 
ご列席の皆様
 
皆様を私たちの素晴らしい都市ウィーンに、そして宗教間対話会議というこの特別な集まりに歓迎できることを大変な光栄に存じます。
 
 今から30余年前、OBサミットを創設するために、福田赳夫元日本国首相は、まさにこの地で、各国の首脳経験者と会合しました。当時の参加者のうち、マルコム・フレーザー元オーストラリア首相とオバサンジョ元大統領だけが今日ここに出席されておられます。もしも当時の出席者の一人が「このグループはどの位長く存続するだろうか」と尋ねられたとしたら、その答えはどうだったでしょう。事実OBサミットは持続しました。それはまず、今日までの長い年月私たちの資金調達に多大な貢献をして下さった日本政府のおかげです。その後、他の政府からの支援も続きました。また、メンバーの方々の忍耐力なくして継続できなかったでしょう。彼らの知覚鋭い分析力や知的な先見性のおかげで、私たちは未だ活動しております。今日ここに集合していることが何よりの証明です。
 
 私は、私たちが意見交換し、議論の的になるテーマにおいて相互理解に到達しようとすることが如何に重要で、如何に見込みがあるかというメッセージを全世界に発信することができる、と確信しています。
 
 今から200年前、1814年に欧州の政治・外交大国がウィーンに集合し、欧州大陸のためのポスト・ナポレオン時代の新たな政治秩序を設定しました。平和は確立されましたが、永続しませんでした。この経験は、平和の構築と維持が、世界にとって恒久的な挑戦であり続けることを教えています。創立以来、OBサミットはその基本的信念に立ち、この難題に挑んできました。
 
 1996年に、私たちの名誉議長ヘルムート・シュミット元ドイツ首相の下で - ヘルムート、大歓迎申し上げます!- ここウィーンで開催された宗教間対話の結論のいくつかを紹介します。アリストテレスが私達に教えたように「人間は社会的動物である。私たちは社会で暮らさなければならず、お互いに調和を保って生活しなければならないが故に、 人間には規則と制約が必要である。」
 
 倫理は集合的な生活を可能にする最低規範です。倫理と自制心がなければ、人類はジャングルに戻ってしまうでしょう。ですから、この精神を懐いて私たちの議論を始めましょう。
 
 
 
開会の辞
 
インターアクション・カウンシル共同議長
元カナダ首相
ジャン・クレティエン
 
連邦大統領閣下
 
ご出席の皆様
 
 豊かな歴史を持つ美しい都市ウィーンをまた訪れることが出来、とても嬉しく思います。
 
 ヘルムート・シュミット氏のように、私も最近大きな節目の誕生日を祝いました。私は80歳を迎えましたが、ヘルムートのようにーそしてお名前は申しませんが、ここにおられる方々のようにー私は生活の速度を落としておりません。私の母国カナダで6番目に大きな都市の市長が今年ついに退職することになりましたが、彼女は93歳です。
 
 私がこのように述べる理由は、私たち、国家や政府の首脳を経験した者たちは、これからもまだ世の中に多くの貢献ができると思うからです。私たちには着想があります。グローバルな諸問題について今も憂慮しています。最も重要なことは、私たちはもはやそれぞれの国の代表ではなく、むしろ、この時点では全ての国の全ての人々を代表する機会を持っていることです。私はOBサミット内では比較的新しいメンバーでありますが、創立メンバーの方々が、叡智を結集して世界の最も手に負えない問題に取り組む場を創設しようという先見の明をお持ちであったことに感謝しています。
 
 ウィーンで開催された第1回目の総会の折、創立メンバーたちは、世界平和が2つの局面 - 軍事・政治と経済 - において脅かされていることを認識し、この2つの問題を最優先課題とし、平和と軍縮そして世界経済の活性化ということを活動の中心に据えてきました。この度の宗教間対話を開始するにあたり、私たちは、東ヨーロッパでは戦争が平和と安全保障を脅かし、世界中で貧富の格差が、個人同士、そして国家間の関係を緊張させていることを念頭に議論をしていきたいと思います。
 
 1987年に、OBサミットはローマで宗教指導者たちの会合を開催、この類の歴史上で最初の対話が行われ、普遍的倫理規範についての私達の活動が始まりました。それは30年前同様、今日も極めて重要です。この度、ここウィーンに素晴らしい専門家の方々が集合して下さいましたが、私たちを導いてくださっている偉大な神学者、ハンス・キュング博士に(残念ながら、この度のご臨席は叶いませんでしたが)特に深謝したいと思います。


 


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