ウィーン宗教間対話共同議長
福田康夫

ウィーン宗教間対話共同議長
マルコム・フレーザー

2014年12月
 
 インターアクション・カウンシル(OBサミット)は、1983年、オーストリアのウィーンで設立されました。そこでは、長期的地球人類問題と取り組むことが決められたのです。その後30年以上にわたって、世界中の元・前指導者たちが毎年集合し、各時点での問題分野における専門家たちと共に政策提言を発信してきました。この英知の集結は、その時々の常識よりも進んでいたことが多く、他のグループが数年後に追随するということも多々ありました。
 
 その中で最も重要なイニシアチブは、政治指導者と宗教指導者間の対話です。冷戦が頂点に達していた頃、OBサミットは、創設者故福田赳夫元首相主導の下、イタリアのローマにおいて1987年に最初の宗教間対話を開催しました。ローマでは、ヘルムート・シュミット名誉議長が前書きで述べられたように、感銘的な合意が達成されました。
 
 宗教間対話は、その後私たちのアジェンダの重要な標柱となりました。宗教間の論争や相違が、往々にして社会不安、憎悪、時には戦争までもたらしているからです。私たちは、この問題を、宗教の誤解と誤用だと考えました。宗教は本来なら、対話を通じて過激主義や対立を収め得るはずなのです。私たちは、世界の主要諸宗教と精神哲学には、共通した倫理観が流れていると最初から信じてきました。そして宗教間の距離を縮め、より安全な世界を確立するために不可欠な共通倫理を定義したいと模索したのです。
 
 これが一層深遠な議論の一部となりました。通商と世界政治のグローバル化は、倫理基準には目もくれずに進んでいました。私たちは、世界の主要宗教間に流れる倫理に関する合意が、グローバル倫理の確立に大きく貢献し、それが通商も含むすべての活動に影響を及ぼし得ると考えました。平和な世界を確立するためには、共通した倫理基準の遵守が不可欠だと信じたからです。そしてOBサミットは1996年と97年に、オーストリアのウィーンで、神学者でありグローバル倫理を長年提唱してきたハンス・キュング博士指導の下、宗教間対話を再び開催したのです。
 
 多くの議論を経て、1997年に「人間の責任に関する世界宣言」案という形で、一連の普遍的倫理規範が成文化され、合意されました。この成文の中核にあるのが、「黄金律」すなわち「自分にして欲しくないことは他人にもしない」です。私たちは、人権宣言の第二の支柱としてこの宣言案が国連で採択されることを望みました。残念なことに、この普遍的倫理という概念は、西側世界で必要な支持が得られませんでした。人間の責任は人間の権利と表裏をなします。人権を享受するには、誰かが責任ある行動を取らなければなりません。責任ある行動なしでは、人権も消滅してしまうのです。私たちの宣言は、世界中、とりわけ南アジア、東南アジア、東アジア、開発途上諸国から広く支持されています。
 
 21世紀が進み、世界の緊急な諸問題への共同コミットメントは不可欠となってきています。私たちは、世界の人々に平和と調和をもたらすためには、普遍的倫理を受け入れることが大きく役立つという信念を強めました。しかし、主要政府の政策立案において、倫理観は欠如しているかのように伺えるのです。あらゆる努力において倫理的態度の重要性をいかに再確立できるかは、おそらく私たちが直面する最重要な課題でしょう。
 
 高齢となられたOBサミットの名誉議長、ヘルムート・シュミット元ドイツ首相が、OBサミットの傘下でもう一度、宗教間対話に参加されたいという願望を表明されました。そこで、私たち二人は、それをOBサミット誕生の地、ウィーンで開催することを決めました。私たちを長年知的に率いてこられたシュミット首相の九五歳を祝して深謝を表明する機会も兼ねることにしたのです。OBサミットの共同議長フランツ・フラニツキー・オーストリア元首相が、2014年3月26-27日に「政策決定におけるグローバル倫理」をテーマとした宗教間対話の組織委員長を務めました。この対話の中心的課題は「政治におけるこれら倫理価値の意義とは何か」でした。倫理とは、その必要性を説くだけのものでなく政策アプローチの一部をなすのだということを、いかに政治指導者たちは保証できるのでしょうか。ウィーンでは、以下の質問事項が検討・議論されました。
 
20世紀の歴史からいかなる教訓を得たか。どの教訓を無視し、どの教訓を忘れてしまったか?
 
l  寛容という徳-無視からではなく尊敬から出てくる寛容-とは、教え得るものなのか?
 
l  私たちは、自らの宗教・文化・文明的帰属意識を抑え、他の人々や国民の帰属意識を尊重するという挑戦を受け入れられるのか。国家・組織・個人であろうと、自己利益は常に道徳的価値や真実、正義よりも大切なのだろうか?
 
l  すべての人間の活動、とりわけ膨大な進歩をもたらしながらも負と邪悪な側面も持つ経済・科学技術の分野での意思決定において、倫理観はいかにして再発見され得るだろうか?
 
l  世界の人口が90億人に達するという予測に鑑み、倫理に基づく人間の英知は、平和で公正な世界を実際もたらし得るのだろうか?
 
 前書きでシュミット首相も述べられたように、これらの質問のいくつかに関して、特定な答えが会議で出たわけではありません。しかし、会議に提出された諸論文も活発な議論も極めて価値の高いものでした。シュミット首相の希望もあり、私たちはそれらを本としてまとめることにしました。(註:原文は英語で2015年3月に発行されたが、その後、日・中・露・印・インドネシア・アラブ・タイ語と7カ国語に翻訳されている。)
 
 私たちが2014年3月にウィーンで会合した時点では、ISISは未だ国家として宣言しておらず、ボコ・ハラムも今日のような世界的注目を浴びていませんでした。最近の出来事は、異なる文化と宗教間に存在する大きな分断を際立たせています。言論の自由とその限界、 そして乱用は、次の点を例証しています。すなわち、ある一つの文化では世俗的価値観の必要な表現であると考えられるものが、宗教に対する尊敬と畏怖が批判精神や冗談を許さない特定の宗教文化では、侮辱的と捉えられるのです。ますます声高に提起される質問は「宗教と言論の自由を和解させることなど可能なのか?」です。これは、私たち全員が直面しているより大きな難題の一部でしかありません。
 
 だからこそ、ウィーン会議は重要だったのです。それは、相違を強調しながらも、共通の立場を見出すことが可能なのかを試みたからです。事実、会議を通じて、これが宗教間のみならず、宗派間でも同様に重要な問題であると指摘されました。会議では、倫理、政治、社会、経済問題など人々を分断する広範なテーマが議論されましたが、結論の一つはコミュニケーションと相互作用を通じてのみ、私たち全員が望む目標に近づけるということでした。
 
 本書は五部構成です。第一部は、開会式でのスピーチ集で、第二部は提出論文と各セッションでの議論のまとめです。第三部は、先に言及したチュービンゲン会議でのスピーチと論文です。(長年この活動を率いてくれたキュング教授が病気のために参加不可能となったので、彼の卓越した論文とシュミット首相のスピーチ、さらにやはり病気でウィーン会議を欠席せざるを得なかった杜維明ハーバード大学教授の論文を掲載することにしました。これら全てがOBサミットへの書き下ろしでした。)第四部は、過去の代表的宗教間対話で打ち出された宣言です。ウィーン会議で繰り返し言及されたように、私たちのこの努力の重要性は常に反復されなければならないと考えているからです。
 
 最後に、30年以上にわたり深遠なビジョンをもってOBサミットを支援し続けてくれた日本政府に改めて深謝いたします。私たちは、諸般の事情から本書をOBサミットの最後の成果物と見なしており、OBサミットも終焉したと位置づけています。
 
 私たちは、共存・協調・人類に対する正義にとって総合的英知と具体的行動が不可欠であると信じています。故に、グローバル倫理の基本的原則および黄金律をここで再度、強調したいと思います。
 
l  全ての人間は人道的に扱われなければならない。そして
l  自分にして欲しくないことは、他人にもしない。


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